阿部サダヲはカレーライスが好き
誕生日について、考えてしまう。
(1月5日生まれだからか、誕生日ケーキはイチゴの乗ったものが多い。イチゴは五本の指に入るほど好きな果物だけど、ケーキでいうと、もっと好きなのある。アンジェリーナのモンブランは世界救える。父といがみ合っている関係だが、モンブランをはじめとして、ケーキを割と頻繁に買ってきてくれるから、小競り合いで済んでる。モンブランにおけるメレンゲをもっと評価してよって世間に思う。)
自分にとって、誕生日とはどのような位置付けの、どのような存在だろうか。
その時々、年齢にもよりけりだが、
総じて言えることは、
自分の誕生日に大した思い入れがない
ということ。
恋人や友達、家族が誕生日を祝ってくれたことに対して、SNSで全フォロワーに向けて、あるいは個人的に、ありがとうを伝えることがあるが、そのありがとうの中身は何だろう。
本当に悲しいことだが、僕は、少なからず、プレゼントをくれてありがとう、会を開いてくれてありがとう、というように、物質的な感謝をしてしまう。
それはなぜか。精一杯のお祝いを同じだけ精一杯に受けきれないのはなぜか。
その理由は、「誕生を知らないから」だと思った。
自分は自分の誕生日に言うほど思い入れがない。
一番古い誕生日の記憶は、本当にその日に生まれたのかも分からない日に、家族でご飯に行ったり、目の前にケーキを置いてくれたり、おじいちゃんがゲームのソフトを買ってくれたり、といった感じで、その当時、誕生日とは、色々とお得という意味で特別な日だった。
特別な日、記念日があるのはこの上なく素晴らしいことだが、誕生日を祝う=誕生を祝うという方程式は捨てた方がいいのかもしれない、とさえ思ったり、思わなかったり、思ったり、思わなかったり。
最近、こんな信念のないダサい考えを持ちかけた自分を、殴りたくなった。
僕は両親からの誕生日祝いをスカしてしまうところがある。
誕生を覚えていないから。
でも、家族は、文字通り、誕生日を祝ってくれている。
僕には誕生したその日の思い出もなければ、その1年後の誕生日の思い出もないし、そのまた1年後の思い出もない。
でも、家族には、僕が生まれた時の思い出が、記憶が、鮮明に残っている。
母には、あまりにも大き過ぎた僕にお腹を痛めて、やっとの思いで産み落とし、男が生涯体験できない感覚のもと、僕の初めての声を聞いたという思い出と記憶がある。
父には、(きっと)気が気でない状況で仕事をした、
一番上の兄には、自我をはっきりと持った状況で初めて誕生間もない赤子を、弟を、抱いた、
真ん中の兄には、初めて弟ができた、
とそれぞれに思い出と記憶がある(といいな)。
家族は1歳の誕生日も2歳の誕生日も、きっと祝ってくれて、その時の思い出と記憶はわずかでも残ってくれているだろう。
そうだ、僕には誕生の記憶が無いだけで、
誕生の思い出は溢れるほどある。
自分は思い出の持ち主じゃないかもしれないけど
思い出の主人公は、自分かもしれない
涙が出てきた。家族からの誕生日祝いにスカした態度を取るのは、家族からしたら悲しいことで、自分は不孝者だろう。
これからの誕生日は
あの日の思い出を思い返す日にしよう。
自分が誕生した時の家族に想いを馳せ、巡らせよう。
大好き人から祝ってもらったら
あれこれ考えず精一杯に喜び、
大好きな人の誕生日は
誕生を祝って心からおめでとうを言いたい。
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「Thunderstruck」 AC/DC
曲のかっこよさはさることながら、
下から映像、ギターのヘッドからの映像も、すんごい。
アベンジャーズ楽しみ。
ヴァルキリー!